こんにちは。
先日20歳ほど年下のお友達に谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』をお勧めされました。そのお友達は、お知り合いから勧められたとのことで読まれているところだったのですが、その内容に感じるものがあって僕にも紹介してくださったのでした。
僕は、高校生の頃、もう30年も前のことになりますが、国語の授業で『陰翳礼讃』を一度読んでいたことを思い出し、けれど時も経ってその記憶もおぼろげでしたので、再読してみようと思いました。『陰翳礼讃』を初めて接するような感覚で読み返し、既に古典であるこの瑞々しく流麗な文章に心を奪われたのでした。
『陰翳礼讃』は、西欧近代との対比において、近代化によって失われつつある日本の暗がりとその静寂、これに混ざり合うような鈍い光の美について書かれた上質の随筆です。西欧近代というのは、産業革命以降の科学技術の発達と工業化によって、衛生的な都市や住環境を作ろうというのが一つにあったのですが、建築的には開口部を大きく取り、電気インフラの流通によって照明が焚かれて、明るく闇を消していくことが健康的な生活環境に結びついてもいました。こうした近代化は、遅れて日本でも進められ、闇の文化が失われていくことへの谷崎の寂しさ、侘しさが翻って『陰翳礼讃』では、闇に照らされる光の美を鮮烈に刻印してもいました。
西欧も前近代には、建築は石造りが多く分厚い壁に構造上窓も大きく開けることができませんでしたから、闇を切り裂くような切り取られた光が暗闇と対比して存在していました。これは西欧二元論的な思想にも通じると思われ、光と闇は相補関係にありながらも絶対的に相入れることのない対極の存在でした。これに対して日本の家屋は、内外部の仕切りにしても間取りにしてもその境界が曖昧ですから、同様に闇と光は溶け合うようで、闇の中に光が弱く滲むようにあるのだと思います。そうした闇の中の光を谷崎は、蝋燭の炎に照らされる漆の椀に、書院の障子に、能楽師の身体に見出したのです。